「ホワイトマジック」の前回では規定3を読み終えて「規定4に進む」と予告しましたが、4を飛ばして、今日は規定5に入って行くことに。ただ、4・5ともに規定の文章を合わせて載せておきたいと思います。
規定4
音と光と波動と形態が混ざり合い融合する。かくして働きは一つとなる。それは法則のもとで進行する。その仕事の進展を妨げることは今や何ものにもできない。人は深く呼吸する。人は自らのフォースに集中し、自身から想念形態を送り出す。
規定5
創造された鞘が降下するに先駆けて、三つのことが太陽天使の注意を引きつける。水の状態、創造する者の安全、揺るぎない観照である。かくしてハートと喉と目が三重の奉仕のために結びつく。
規定5に入って、
P200「揺るぎない観照」の章から
しばらくの間「ハートと喉と目」という三つの言葉について研究することにしよう。というのは、それらの言葉には特別な意味があるからである。この三つは、急速に近づきつつあるこれからの世界周期の間、すべての弟子たちが用いる言葉になる。
これからの世界周期… 書かれた当時、「急速に近づきつつある」とのこと。まさに今、2025年からの時代周囲を言うのでしょうか。ジュワルカルも、2025年から新しい時代サイクルが始まる、と語っていますが、別の角度からは2000年期の終わりとも言われている現在です。旧約聖書の神との(一神教という形での)契約が終わるのだとか(Youtubeの先生方情報)。
「ハートと喉と目」… ハートはスピリチュアルではよく知られていることで、これから、21世紀、女性的アプローチ(感性)・右脳の時代である、という部分と一緒に、「ハートで生きる」事が大切というのは、既にメタフィジカルな界隈では周知のこと。喉、そして目はどうでしょうか。やはりこれから、現在進行形の未来への示唆のようです。具体的に読んで行きましょう。
(偶然にも私が最近、2回ほど、記事や新ワークのページに書いた事と内容がシンクロしていますが)未熟な、まだ初期段階の「弟子」(あるいは弟子「見習い」の最終段階)に見られる傾向である、と書かれています(..あらら..)。
その頃(見習いの終盤、あるいは弟子になりかけの頃)は、自分の知性では統御、理解できない能力やパワーに気づく。自分で説明することが出来ず、どうやったからそれに触れた、などが分からないために、再現できないそうです。ただ、フォースを自分の内側で感じることは出来る。
これらの経験の記憶を「保存」し、待つこと。オーラ体の各層の浄化と「ヴィジョンを歪める恐れがあるすべてのものの除去に専念」することによって、次の段階、つまりそれを知的に分析し理解し、活用できる、再現できるようになる。その作業にかかる期間の長さは、その人が初めて人格を超えたものの視点を持とうとしているか(魂で生きる道を歩こうとしているのか)、または、経験(過去生も現生も含めてだと思われる)で達成した仕事の「糸を手繰り寄せている」のかによる、とのこと。
う〜む。それには納得です。こういったことの感性や理解度、学んで消化していく速度は、人によって全く違うもので、それは、この人生においての霊的な学びや、学問的な経験値とは、まったく関係がないように感じて来ました(サロン、スクールを通じて)。ひとえに、魂としての歴史によるのだろうと思っています。
そして次に、P202
ここで私は、すべての真の、そして熱心な熱誠家に、次のことを完全にはっきりとさせておきたい。次の二、三十年の間に与えられる訓練において、アストラル視力とアストラル聴力の発達は完全に除外され、あるいは(もしこれらの能力があるなら)最終的には克服されなければならないということを。真の弟子は、意識をさらに高く、魂のより広大で包括的な認識へと移行させることを視野に入れてメンタル界に集中するよう努力してきた。
アストラル視力、アルトラル聴力というのは、「地上のあまり進化していない種族や高等動物に備わっている」とのことで、それを「再び獲得する必要はない」のだそうです。どういうことか? 他の本でもよくジュワルカルはこういった事を言いますが、アストラル界、は野生動物や、自然界の半物質的な存在(妖怪?精霊など)も該当するのかなと思いました。
人類はアストラル体も持っているけれど、現代はそこを超えていくのが課題となっています。アストラル視力と聴力を、「再び獲得する必要はない」と言っているので、今は人類が失っているものであり、けれども、動物たちはそれを持っている、つまり、いわゆる霊能力的なことを言うのではないかと思います。いわゆる「見える・聞こえる」能力ですね。
犬猫でも、オーラや霊が見えるとか、人間には聞こえない周波数を聞くといいます。野生の動物たちならば尚更で、独自の視力や聴力を持っている。そこに「戻る」必要は無いということなのでしょう。まだまだスピリチュアル業界にも誤解が蔓延していて、私もヒーラーをしていると言うとよく「見えるの?」と聞かれるのですが、古風な霊感とはちょっと違う世界なのだといつも説明をしています。
ヨガを極めたグルや、マハトマは、また別の形で(アストラルではなく)見える、聞こえる世界が広がるのだろうと思いますが、それとは違って。確かに昔から、自分の先生方や、スクールでエネルギーを理解しセンスのある方々ほど、そういった発言(見えないものが見えるなど)はないもので、多分、より正しくメタフィジカルを学んでいる人ほど、いわゆる霊感とは距離が遠いように思います。
けれど誤解があるので、ヒーリングスクールでも「見える」ことを重視し、まずは見えるようになる、チャネリングできるようになることから、学び始める… なんていうことも多々あるよう。本来とても危険なことです。
では何故、古風の霊感を持っている人がいるのか? 家系で受け継ぐ、あるいは一時的などの理由で、アストラル存在がその人の中に入っている、憑いている、のでしょう。それが良いことなのかどうか、は、その存在の性質次第、ということでしょうか。龍神などもアストラル存在なのかなあ…と、思ったりしています。
動物霊は人と同様に個体によって個性や性質があり、ネガティブなエネルギーと結びつき堕ちているようなものもあるし、高尚なものもある…?という。憑いているものと、その人間の引き寄せもあるのでしょう。
念の為に繰り返しますと、上記、「ヨガを極めたグルや、マハトマは、また別の形で(アストラルではなく)見える、聞こえる世界が広がるのだろうと思います」…そういったケースで、過去生からの積み重ねで、アストラルではなく、更に先にある拡大的な感覚状態で見える、聞こえる、を実現している人ももちろん居ると思います(ただ非常に稀なこと)。
まだA.ベイリーで確認した訳ではないけれど私の推測として、アストラル体の高位の様相としてブッディ体(オーラ第五層)があるので、ブッディ体をうまく活用出来る人は全感覚も可能になるのではないか… それは、人間部分のライトボディでやっている事ではないので、過去生での積み重ねがあったとしても、今世で肉体に入ったからには家系や民族や人類の遺伝子から受け継ぐ情報があるので、肉体や感情、メンタルなどのブッディ以下の体の徹底的な浄化を経て、叶えられるものなのでしょう。
p203
大師は人類の(そしてすべての形態の)魂様相に働きかけるのであって、アストラル体に働きかけるものではないということを覚えておかなければならない。このことを東洋と西洋どちらの教師もしばし忘れてきた。
大師は、いわゆるアセンデッドマスターです。人類の進化を促進している霊的な地球に所属する、高次の魂たち。
更に続きます。
p203 7行目
主要な目標は、魂を認識し、魂意識を培い、魂として生活し働くことであると言っておきたい。自らの道具を意図的に用いることができるようになるまでは、マインドを訓練し、顕現を支配する法則を学び、私たちが今「高位」という言葉 —— 間違った呼び方であるが、十分としなければならない——で言及しているものすべてを包含することを学びなさいと忠告しておいたほうが良いであろう。
魂意識が、パーソナリティ要素(「主観的な道具)と表現されているもの、主に感情=アストラルのことを言うのだろう)の使い方を熟知し、使用をうまくコントロール出来るようになった時、魂の一つの特性である「直観(直感=inspirationとは違う、恐らくinsight)を使うことで、道具(=パーソナリティ)を意図的かつ知的に統御し、その存在目的を理解するようになる、とのこと。
人間として生きている自分を「道具」と呼ぶことに抵抗があるという人は、まだ、魂意識の目覚めが浅い… ということになりますが、道を歩みながら、フォースの流れが魂としての意識とシステムに寄りながら、人格との統合がうまく進んでいけば、確かにそれは「道具」なのだということを、実感するようになります。
もう少し読み進めて、
自分自身がマスターのグループの働き手として機能できるようになったことを知る手掛かりは、顕在意識では何とも、簡単に自覚できるものではないそうです。高次のグループの一員として機能しているという自覚はないまま、ただ、次の3つのことには気づいているという。p205
- メンタル的活動の増大。最初は混乱し、マインドをむしろコントロール出来なくなったような一時的症状を伴うよう。その後落ち着くとのこと。メンタル体や肉体脳の機能が変わり始めたことで、一時的に混乱するのだろうと思います。
- 高次の計画をヴィジョンとして見る能力が高まり、初期段階は狂信的になりがちだとか。次から次へと渡り歩き、足下をすくわれ続ける。そのうちに落ち着き、自分の役割を果たすため、目的に向かい、貢献するようになる。
- サイキック的な敏感さ。成長を示すと同時に「テストでもある」。
サイキック能力のとりこになり、その開発と自己主張のために使うよう「誘惑される」だろう、とのこと。まさにテストですね。ここでいうサイキック能力はやはり「低位」と表現されていて、アストラル的な能力のことを言っているよう。人類への奉仕の道具にもなる。けれど、やはり未熟なうちはそれを自分の為に使うことにのめり込むような段階があるのでしょう。
p206
オカルト(秘教)的に橋を渡った人々は低位の鞘(オーラ)に備わっている能力を用いる必要はない。彼らは直観という絶対的な確実な知識と、光の原理というイルミネーションを使うことができるからである。
本当のスピリチュアルは、やはり低位我を甘やかすものではないので「目隠しの状態で」前進する、のだそうです。期待をするでもなく、常に自身のメンタル装備を整え、理想を定めてそこに向かい奉仕しつづける。そのうちに、仕事に没頭することで自分自身を忘れてしまったときに、突然「或る日、極めて長きにわたって彼を見守っていた方に気づく」とのこと。。。
本が書かれたのは90年前ですから、現代のエネルギー状態に照らして、アップデートする必要はあるとは思いますが、基本的なことは同じ。「目隠しの状態で」進んでいく。これは本当に納得です。それでも、信じ続けて進まなくてはいけない。ここで多くの人が挫折したり、断念したりしてしまう。そんな厳しさも、今とこれからは少し変わって来ていて、意識や想いが現実化する速度は格段と早くなっていると感じています。
今日はここまでとします。
Love & Grace
Amari
